カルチュラル・アプロプリエーション「文化の盗用」について考えよう。

native エッセイ
cultural appropriation?

Cultural appropriation という言葉は聞いたことがあるだろうか?「文化の盗用」と日本語に訳される。

音楽やファッション、食べ物、話し方、シンボルなど、特定の文化的な要素を、その文化に属さない人が取り入れる場合を指す。

例えばスポーツチームがネイティブ・インディアンの名前や民族衣装をトレードマークにしたり、黒人以外の人が典型的な黒人のファッションとスタイルでラップしたりするのは「Cultural appropriation」として非難される可能性がある。

特にマイノリティーの文化的要素をマジョリティーの人が取り入れる場合だ。

Appropriate の意味

「予算として取り入れる」など、公式にお金を確保する意味に加え、「自分のものとする」と言う根本の意味がある。

面白いのは、そこに程度の差があることだ。単に、自分のものにする、から、チャッカリ自分のものにする、あるいは、盗んで自分のものにする、までカバーできる、フォーマルな動詞である。

嫌な気持ちになる人がいる

外部の人が軽率に、無礼に、嘲笑的に、あるいは利益のために、自分が大切にする文化を借用したり、誤用したりすることに抵抗があるのは当然だ。

あるいは自分の人種がステレオタイプとして一括りに、いつも同じ様に描写されるのも嫌気がさす。

また、ある特定の文化に対する尊敬、憧れ、保存が動機である場合も、その文化に生まれた人にとっては、必ずしも良いものとして受け取られない可能性も十分にある。

Rapper
ステレオタイプの1つ?

「真似」は 心からの賛辞?

“Imitation is the sincerest form of flattery.” 「真似すること」は賛辞の中でも最も誠実なものである。

Oscar Wilde オスカー・ワイルド

このように Cultural approprieation は、単純に良い物だから取り入れたいという自然な反応でもある。

文化は常に互いに影響し合い、融合して新しい文化を生み出す。音楽、食文化、芸術など、遥か昔からそんな融合が繰り返されているのは明白だ。

また、生まれた場所や人種によって、人の嗜好が決定されたり、特定の文化に対する許可が与えられる訳でもない。

地球に生きている人間として、お互いに影響し合うのを避けることは出来ない訳だから、人種や国籍という枠より大きな視点があっても良いのでは無いだろうか?

ちなみに、この引用の全文は:Imitation is the sincerest form of flattery that mediocrity can pay to greatness. つまり、「平凡、凡庸な人間が、偉大さに対して送れる誠実な賛辞とは『真似すること』だ」、となる。これって、言い換えれば、真似しているだけでは平凡に止まって、偉大にはなれない、という意味とも取れる。

Respect がキーだ

そう考えると、Cultural appropriation が問題になるのは、その人が、その文化に属するか属さないか、では無く、その文化の要素を取り入れる際に「尊敬の念 Respect」があるかどうかでは無いだろうか?

尊敬の念があれば、その文化を十分に理解して、その文化に属する人を考慮するのは自然だ。

まとめ

アメリカでアーティストとして活動していると、日本の文化を取り入れたアートを見る機会も多い。また、人から「日本の文化をパクっているアーティストに対して腹がたつか?」、という質問を受けることも結構あった。

日本の美的感覚を理解して素晴らしい作品を作る人から、単に漢字やひらがなを意味も分からずに取り入れる人まで幅は広いが、個人的に、日本人として特に腹はたつことは無い。

female with Katana
It’s Ok by me

一般的に日本人は Cultural appropriation に関して敏感では無いように感じられる。

実際には、その文化に属する人々よりも、当事者でない人達が「文化の盗用」を糾弾することもある。

Cultural appropriation と一口で言っても、明らかに差別的な行為から、熱烈な憧憬まで、幅広く、定義は曖昧である。

多様な文化が複雑に影響し合う現代社会では、自分の感覚だけにとどまらず、広く考える必要がある。

難しく考える必要はない。自己中心の考え方に陥らないように常に意識していれば、無神経に振舞ってしまうことは大体において避けることができるのだ。

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