有名卒業スピーチ、”This is water” 読解分析 [1]

me pretending to be David 英語レッスン
彼のトレードマークは頭に巻いたバンダナ

このブログで、視点の大切さや、既存の考え方から脱却することについてよく書いているが、数年前に自殺して亡くなった作家、David Foster Walaceのケニオン大学での有名な入学式スピーチは、まさにそんなポイントを的確に話している。

良い内容で、共感した話なので、ぜひシェアしたい。長文読解レッスンとして数回に分けて「アナ訳」してみる企画にした。

記事の最後に、筆者拙訳としてアナ訳から日本語訳に直してみたので参考に読んでほしい。

アナ訳とは単なる訳ではなく、英語の流れをそのまま情報として日本語にするもの。だから日本語として正しい語順に直したりしない。そしてアナテーション、注が入る。だから日本語の文として理解せずに、情報の塊が順次入ってくる状態で抽象的に理解する感じで読んでいこう。

“This is water” A commencement speech by David Foster Wallace Part-1

“Greetings parents and congratulations to Kenyon’s graduating class of 2005.

ご両親の皆さまこんにちは。そしてケニオン大学の2005年度の卒業生の方々、おめでとう。

There are these two young fish swimming along and they happen to meet an older fish swimming the other way, who nods at them and says “Morning, boys. How’s the water?”

二匹の若い魚が、泳いでいる、沿って=スイスイと。すると、彼らは出くわした、年上の魚に、(その年上の魚は)反対の方向に泳いでいる。年上の魚は若い魚たちに頷いて言った。「水の具合はどうだい?」

And the two young fish swim on for a bit, and then eventually one of them looks over at the other and goes “What the hell is water?”

そして二匹の若い魚はそのまま泳ぎ続ける、少しの間、そして、最終的に=とうとう=そうするうちに、片方が、もう片方の方に顔を向け言った。「一体全体、『水』ってなんや?」。

This is a standard requirement of US commencement speeches, the deployment of didactic little parable-ish stories.

これは、標準的に要求されるもの、アメリカの卒業スピーチに。(これというのは)使うこと、ちょっとした寓話的な教訓話を。

The story thing turns out to be one of the better, less bullshitty conventions of the genre,

この教訓を使う伝統は、ましな、嘘っぽくない伝統の一つであることが分かった=となった、卒業式というジャンルのうちでは。

but if you’re worried that I plan to present myself here as the wise, older fish explaining what water is to you younger fish, please don’t be. I am not the wise old fish.

しかし、もし心配していたら、私が自分を分別ある年上の魚と提示する=振舞う=として、水というものは何なのかと説く計画=つもりでいることを。どうぞ(心配)しないでください。私はこの分別ある年上の魚ではありません。

The point of the fish story is merely that the most obvious, important realities are often the ones that are hardest to see and talk about.

この魚の話のポイントは、単に=簡単に言うと以下:最も明白で、重要な現実は往往にして、こういうもの→最も見え難く、言葉にし難いもの。

Stated as an English sentence, of course, this is just a banal platitude,

こうして英語の文として言ってみると、もちろん、まるで平凡で、言い古されたこと。

but the fact is that in the day to day trenches of adult existence, banal platitudes can have a life or death importance, or so I wish to suggest to you on this dry and lovely morning.

でも事実は以下:大人として存在する実際の日々のトレンチ = 最前線 = 現場の中では、平凡で陳腐な教訓が生きるか死ぬかの重要性をもつ可能性がある。あるいは=というか、そうであるということを君たちに提案したい。今日のような乾燥した、そして素敵な朝に。

最後の”on this dry day”は冗談的に言っている。

「これは水です」(パート1) 筆者日本語訳

ご両親の皆さまこんにちは。そしてケニオン大学の2005年度の卒業生の方々、おめでとう。

2匹の若い魚がスイスイと泳いでいます。すると反対側から年上の魚が泳いでくるのに出くわしました。年上の魚は軽く会釈をすると言いました。「おはよう、若者たち。水の加減はどうだい?」若い2匹の魚はそのまましばらく泳ぎ続けますが、そうするうちに、片方がもう一方の魚に顔を向け言いました。「水って一体なんのこと?」

アメリカでの卒業スピーチには欠かせない、ちょっとした寓話的な教訓話を披露しようと言うわけです。卒業式に付き物の嘘っぽい伝統の中では、こんな教訓話は悪く無い方だなと最近は思うようになりました。これから私が、自分がこの年上の分別のある魚の立場で、水というものは何なのかを若い君たちに講義し始めるのかと心配していたら、心配は無用です。私は賢い年長の魚ではありません。

この魚の話の要点を単純に言ってしまうと、最も当たり前で、そして重要な現実とは、往々にして、観察したり、議論したりするのが最も難しいものである、ということです。
こうして英語の文で言ってみると、とても平凡でありきたりの話に聞こえます。
でも実際の大人としての日々の生活の現場では、平凡で陳腐な教訓が、生きるか死ぬかの重要性を持つことがあるのは事実であり、今日のような乾燥してはいるけれども素敵な朝に、そんな事実を君たちに伝えたいのです。

Yojo
Yojo

今日はここまで、次回に続く。ちなみに英語のテキスト、としてスピーチの録音はこちらのリンクで。

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