さてシリーズ第3回目、スピーチ読解、アナ訳の続きです。アラスカのバーでの2人の男の会話に含まれる深い意味?
完全日本語訳を新たに追加しました。

“This is water” A commencement speech by David Foster Wallace
Here’s another didactic little story.
ここでもう一つの短い寓話を紹介します。
There are these two guys sitting together in a bar in the remote Alaskan wilderness.
アラスカの辺鄙な未開地のバーで二人の男が一緒に座っています。
One of the guys is religious, the other is an atheist, and the two are arguing about the existence of God with that special intensity that comes after about the fourth beer.
片方の男は信仰深く、もう片方の男は無神論者です。そして二人は神の存在について議論しています。特別な熱心さで→ビール約4杯目にして出て来る(熱心さ)。
And the atheist says: “Look, it’s not like I don’t have actual reasons for not believing in God.
そして無神論者が言います。「いやね、僕には実際の理由がないわけじゃないんだ、神を信じないのは。
It’s not like I haven’t ever experimented with the whole God and prayer thing.
試して見なかったわけじゃないんだ、この、神やお祈りするとかそういう事を
Just last month I got caught away from the camp in that terrible blizzard, and I was totally lost and I couldn’t see a thing, and it was 50 below, and so I tried it:
つい前月にキャンプから離れた場所でひどい吹雪につかまったんだ、道が分からなくなり、何も見えない。温度もマイナス50度。そんなわけで試して見たんだ。
I fell to my knees in the snow and cried out ‘Oh, God, if there is a God, I’m lost in this blizzard, and I’m gonna die if you don’t help me.’”
雪にひざまづいて、叫んだんだ。『おお、神よ、もし神が存在するのなら、僕は吹雪の中で迷ってしまった、助けてくれなければこのまま死んでしまう』」。
And now, in the bar, the religious guy looks at the atheist all puzzled.
バーの中で、信仰深い男は無神論者の男をすっかり混乱したように見る。
“Well then you must believe now,” he says, “After all, here you are, alive.”
「じゃあ君、今は信じるんだね、今こうして生きているわけだから」、と男は言う。
The atheist just rolls his eyes. “No, man, all that was was a couple Eskimos happened to come wandering by and showed me the way back to camp.”
無神論者は呆れたように見上げ、「違うんだよ、お前、エスキモーの2人連れがたまたま通りかかって、キャンプに戻る道を教えてくれただけに過ぎない」。
It’s easy to run this story through kind of a standard liberal arts analysis:
この話をリベラルアートのいわゆる標準的な分析方法をつかって解釈することは簡単だ。
the exact same experience can mean two totally different things to two different people, given those people’s two different belief templates and two different ways of constructing meaning from experience.
全く同じ経験が、2人の人にとって全然違う2つの意味を持つことはあり得る、これを考慮すると→この二人はそれぞれ違う信念の型と、経験から意味を導き出す2つの違った方法を持っていること。
given = 与えられた=考慮すると=この条件で その後に来るthatが省略されている。
Because we prize tolerance and diversity of belief, nowhere in our liberal arts analysis do we want to claim that one guy’s interpretation is true and the other guy’s is false or bad.
我々の社会は他人を許容し、多様な信念がある事を大事にするので、このようなリベラルアート的な分析においては以下のことは主張すべきではない→一方の考え方が正しく、他方は間違っており、悪い、ということ。
Which is fine, except we also never end up talking about just where these individual templates and beliefs come from.
それは正しいことだ。ただ、我々は議論しない、そのような人それぞれの考え方や信念が一体どこから来るのかを。
Meaning, where they come from INSIDE the two guys.
つまり、この2人の男の内面のどこから発生するのか(それぞれの考え方・信念が)
As if a person’s most basic orientation toward the world, and the meaning of his experience were somehow just hard-wired, like height or shoe-size; or automatically absorbed from the culture, like language.
まるで、ある人の社会に対する基本的な視点や、経験から汲み取る意味は、説明なしに、あらかじめ内面に組み込まれているかのようにだ、身長や、靴のサイズのように、あるいは言語のように文化から自然に吸収されるかのように。
As if how we construct meanings were not actually a matter of personal, intentional choice.
それはまるで、人それぞれがどのように意味を見いだすのかは、本当は個人個人が行う意図的な選択では無いかのように。
Plus, there’s the whole matter of arrogance.
それに加えて傲慢さという大きな問題がある。
The nonreligious guy is so totally certain in his dismissal of the possibility that the passing Eskimos had anything to do with his prayer for help.
この無宗教の男は完全に確信しきっている、以下の可能性は無いと→通りがかったエスキモーたちと、自分の助けを求めた祈りとの間に相関関係がある。
True, there are plenty of religious people who seem arrogant and certain of their own interpretations, too.
それは事実だ、信仰がある人の中でも傲慢なように見え、自分の解釈を信じきっているように見える、のもまた(事実だ)。
They’re probably even more repulsive than atheists, at least to most of us.
信者は無神論者よりもさらに嫌悪感をあおる、すくなくとも我々の多数にとっては。
But religious dogmatists’ problem is exactly the same as the story’s unbeliever: blind certainty, a close-mindedness that amounts to an imprisonment so total that the prisoner doesn’t even know he’s locked up.
宗教を信じきっている人の問題はこの物語の無神論者の問題と全く同じなのだ。それは盲目的に信じること、心の狭さがひど過ぎて囚人のようにしてしまう程、完全に囚われて、自分が禁錮されていることすら気がつかないほど(の心の狭さ)。

このアナ訳は日本語としては読みづらいかもしれないけれど、英語ではこの順序で情報を頭に入れていくわけです。
では、次のセクションでこれを「翻訳」します。
「これは水です」(パート3) 筆者日本語訳
ここでもう1つのちょっとした寓話を紹介しましょう。
アラスカの辺鄙な未開地のバーで2人の男が同席しています。
1人は信心深い男、もう一方の男は無神論者です。ビール4杯目位から帯びてくる例の特別な熱気で、神の存在について議論しているところです。
「いやね、僕には神を信じない理由が実際にあるんだよ。」
と無神論の男が言います。
「神とか、お祈りとか、そう言った事全般を試してみた事がない訳じゃ無いんだ。
つい先月、キャンプから離れた場所でひどい吹雪につかまってさ、すっかり迷っちゃったんだ。何も見えないし、気温はマイナス50度。だから試してみた。
雪に跪いて、『おお、神よ、私は吹雪の中で迷ってしまった。もし存在するのであれば、私を助けれくれ。でなければ死んでしまう』って叫んだんだ。」
バーの中で、信心深い男はすっかり混乱した様子で無神論の男を見て、こう言いました。
「じゃあ、今、こうして生き延びたと言うことは、君は今では信じるわけだ。」
無神論の男は呆れたように天井を見上げ、言います。
「違うんだよ、お前、結局はたまたま通りがかったエスキモーの2人づれがキャンプまで連れて戻ってくれただけに過ぎなかったんだ。」
この話を、よくありがちなリベラルアートの分析方法で解釈するのは簡単なことです。
2人の違った人間が、それぞれ違った信念に対する考え方を持ち、それぞれ違った方法で経験から意味を導き出すことを考えると、2人の人間にとっては同じ経験も、全く違う意味を持つことはありえます。
我々の社会は他人を許容し、多様な信念がある事を大事にするので、このようなリベラルアート的な検証においては一方の解釈が正しく、他方は間違い、あるいは悪いと決めつける事はしないのであります。
それはそれで良いのですが、そうすると、人ぞれぞれの考え方や信念がどこから発生するのかについては議論する事がなくなってしまいます。
つまりこの2人の男の内面はどのように形作られたのかについてです。
まるで、個人の基本的な世界観や、経験から得る意味は、身長や靴のサイズのようにあらかじめプログラムされている、あるいは言語のように自然に文化から吸収されるかのようにです。
まるで経験から意味を見出す方法が、実際には個人的な事柄でも無く、意図的に選択できることでも無いかのようにです。
それに加えて「放漫さ」という大きな問題もあります。
無神論の男は、通りがかったエスキモー達と自分の助けを求める祈りとの間に何らかの関係がある可能性が無いと完全に確信しきっています。
そして他方の信心深い人の間でも、自分の解釈に疑いを持たない放漫さがあるのも事実であります。
少なくとも我々多数の人間にとっては、信心深い人の方が無神論者よりも嫌悪感を煽るのではないでしょうか。
しかしながら熱心な宗教家の問題は、この物語の無神論の男の問題と何の変わりもありません。それは、盲目的に確信するあまり、自分の考え以外には心を閉ざしてしまい、自分が禁錮されていることすら気がつかない程完全に囚われてしまう問題なのです。

Wow, it was long this time. Are you with us?
Let’s move on to Part 4!
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